色んな本を売りました

今日は本買取について書きます。

手狭になった部屋にある本棚を処分しようと、いらない本と残したい本を分けました。

こういう作業をする時はつい思い出が蘇り、手が止まってしまうことがほとんどです。
今回いらない本と位置付けたのは、二十年以上前の芥川賞をとった本やベストセラーになった本などの大きな単行本、シリーズで集めていた漫画、福祉関係に関する専門書、その他こまごまとした文庫本です。
漫画は一部を除いてあっさり未練が残りませんでした。専門書類も今では情報が古くなっていて役にたちそうにないです。調べたいことはネットでサクッと検索できる時代になりました。どうしても欲しい本だけ買えばいい時代になったのです。

困ったのは大量の単行本。読んでみてそれなりに気に入り、コレクションというほどでなくても手元に置いておきたいものが多かったからです。
購入時のエピソード、読んだ時の感想、若かった私が好んで買った本は今でも充分読み返したくなるものもありました。それでもファンである数人の作家の本を除いて処分に踏み切りました。
文庫本はなるべく頭を空っぽにして直感で残すものを決めました。

大きなボストンバッグに入りきらなかった約六十冊の本たちがブックオフのカウンターに置かれた時には、やっぱり寂しい気分になりました。
古い本ではありますが、少なからず店員さんに嗜好が分かってしまうのも恥ずかしいものです。青春時代を手放すような錯覚も起こりました。

とはいえ、価値のある本などないだろうと思っていましたし、量だけで考えると1000円するかなぁという思いがありました。
状態は日焼けが少々あるもののあまり読み返されもしなかった本が多いので良いほうだと思います。店員さんは「本部が決めているので自分では値段が判断できない。」と言いました。

売り上げは4200円。思ったよりも多くてびっくりです。一冊の専門書にえらくいい値がついていました。
古書回収に出してしまえば手間もかからないのですが、誰かが私の古本を手にするのかと思うとワクワクします。
お決まりのように、手に入ったお金で私は欲しかった詩集を買って帰りました。お金がほしくて売ったのに間違いはないのですが、ブックオフに掘り出し物があるのも知っています。

若い頃は、本にお金を使うことに罪悪感がありませんでした。しかしこのご時世、本当に必要なモノ、本当に欲しいものを見極めて手元に置くことを考えたいと思います。
何も完璧なミニマリストになる必要はありません。上手に古本買取を活用できたらそれが一番いいのではないでしょうか。

ブックオフで古本を売るのもいいですが、本は重いし、査定時間を待つのが嫌だという方もいるでしょう。
そんな方は宅配古本買取を活用するのがおすすめです。

古本買取比較|本を高く売るおすすめ方法を紹介

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夏目漱石未完の絶筆『明暗』

この本は、長編小説が多い漱石の小説の中でも異例の長さです。

未完の状態で約600頁ですから、書き続けたら裕に1000頁は超えていたのではないかと思います。

この本のストーリーは非常に複雑です。

平凡な幸せそうに見える夫婦が、実はお互いを理解できずに腹の探りあいをしており、それにも関わらず周囲の人間は、その見せ掛けの仲の良さに翻弄され、夫婦との対立を深めます。

物語は、主人公に昔将来を誓った女性がいたことがわかり急展開しますが、結局その女性と主人公が温泉で「密会」したところで、漱石の死によって筆は置かれています。

主人公は津田という男性ですが、主人公と呼んでよいかは微妙なところです。

なぜならこの作品では、津田の頭の中で構築された人間関係が描写されるだけではなくて、津田と関わるそれぞれの人が、それぞれ独自の人間関係を構築しています。

つまり津田は便宜上主人公なのであって、あくまで「one of them」に過ぎないのです。

津田の妻お延の心理描写は、津田のそれよりも緻密に感じられるし、津田の友人小林が熱弁を揮うとき、主人公の津田は脇役に押しのけられます。

「あとがき」でもある通り、この視点の置き方が、以前の作品とは大きく異なります。

例えば、『こころ』では、三角関係の一角となった先生の奥さんの心情や、人間関係は語られないままでした。

また、『行人』においても、ほとんどが神経症に悩む一郎の、妄想とも言っても良い頭の中の考えで埋め尽くされていました。

漱石は主人公を特別視しないことによって、全ての登場人物を相対化することに成功しています。

ただこの「仕掛け」によって、小説はまるで迷路のように入り組んでいます。

全ての主人公が他者との関わりの上で自己を捉え、自分の本当の感情を殺しながら、ある種の見栄を張って生きている・・・。

これはまさに漱石が長年危惧してきた「技巧」に繕われた人間関係です。

人間はいつの間にか、自分の感情に正直に生きることよりも、自尊心を傷つけないように生きることを選択するようになってしまった・・・。

これが他者との同居を余儀なくされた現代人の孤独であり、悲劇でもあるのだと思います。

漱石の苦悩は痛切です。

どうしたら人間をこの窮屈な人間関係や見栄や技巧から開放できるのか?

そうしたら自分だけを良く見せることだけをやめて、真の意味で他者に奉仕することができるのか?

この人間のエゴの問題は、未だに未解決と言ってよいでしょう。

漱石は、最期に人間関係を平等にして見せました。

ただそれは、ただ平等なだけでなく平等に苦しい存在にしたのだと思います。

漱石の中期の作品を見ると、この孤独は高等教育を受けたインテリに特有のものであるかのような描写がされていましたが、この本『明暗』においては、慎ましやかに市井に暮らす人間達にも、やはり同等の孤独があることが描写されています。

他者がいないと生きて行けない。

一方で他者がいるから生きずらい。

この問題は非常に深刻な問題です。

考えさせられる本、エミール・ゾラの『居酒屋』

日本近代文学読破の旅に欠かせる事ができない「寄り道」。

そう、この本が、日本の近代文学に与えた影響は計り知れません。

田山や秋声らの自然主義文学はもとより、永井荷風などはとりわけゾラに強い影響を受けた作家でした。

さて、本書の「影響」を先に述べてしまいましたが、もちろん本書の内容も、日本の近代文学に影響を与えてしかるべき衝撃的なものでした。

ゾラは、貧しい労働者階級の救いのない、どん底のような暮らしを、ありのままに描きました。

貧しさのあまり堕落せざるをえない人間の姿を描き、人間をそこまでおとしめてしまう社会のあり方を糾弾したのです。

本書でゾラがとりわけ労働者階級の惨状を描いたと言うところで、社会主義者から熱狂的な支持を受けることになりましたが、この本は何も労働者階級のみにスポットライトを当てた訳ではないのだと思います。

ゾラは、食べること、肉体を酷使すること、そして性を貪ること、そういった人間の根源的な欲求をむき出しにしている労働者階級を、あらゆる人間の縮図として描き出したに過ぎないのだと思います。

この本の物語の女主人公、ジェルベーズは、何も大それた夢を持っているわけでもなく、人一倍欲張りなわけでもありませんでした。

むしろ勤勉で、慎ましやかな、家庭的な女性でした。

そして勤勉なブリキ屋の夫クーポーという伴侶を得て、彼女の生活も順風満帆かに見えました。

しかしクーポーの怪我と、それによる借金、そして昔の情人であったランチェとの情事により、そのささやかながらも幸せな生活は音を立てて崩れ始めます。

それまで優しくて勤勉だった夫は、怪我をしてからというもの、人が変わったように呑んだくれ、ほとんど毎日近所の居酒屋に入り浸り、やがて娘のナナも放蕩の生活を送るようになると、ジェルベーズ自身も酒に身を投じます。

そこにあるのは、まったく救いのない物語です。

ジェルベーズがいた街には、この救いのない物語があちこちに転がっていました。

この本は700頁以上ありますが、その頁数の多さからではなく、そのあまりの残酷さから、何度も読むのを断念しそうになりました。

とても続きを読む気になれないからです。

ただ、これがゾラが書いたありのままだとすれば、街角で凍え死ぬ人を見て、見てみぬ振りをするのと同じような事だと思い、歯を食いしばって、胸を締め付けられながら読了しました。

こんなに読むのが苦しい本は初めてでした。

ただ、この本のテーマは、決して過去のことではないのだと思いました。

貧しさゆえに、働かなければならない人間。

貧しさゆえに、壊れてしまう人間。

そんな人間は、現代にもどこにだって転がっています・・・。

そう考えると、なんだか人間と言う存在のはかなさに、非常に哀しくなりました。

おすすめ小説『ノルウェイの森』

この作品は言わずと知れた村上春樹の出世作ですが、村上春樹の小説群を通読した後であらためてこの作品を振り返ってみると、この作品の鮮明さは他の作品よりも突き抜けているように感じます。

他の作品の中にも「自殺した恋人」のエピソードが出てくることからも、この作品は間違いなく著者がどうしても書きたかったテーマの一つだったのではないかと思います。

時は1969年、田舎から上京してきて寮暮らしをしていた「僕」は中央線の電車の中で、高校時代の親友キズキの恋人であった直子と再会します。

二人の共通の知人であるキズキは高校生の時に車の中でガス自殺したのでした。キズキの死によって、若くして人生の深淵をのぞき込むことになった「僕」はどこか周囲に馴染めず大人びた性格になっていました。

キズキが死んだ時、「僕」は、

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

ことを思いましたが、直子もまた幼なじみであり唯一無二の理解者であったキズキの死に深い傷を負い、見違えるほどやせ細っていました。

二人は四ツ谷から駒込までひたすら歩き続け、それは散歩と言うには本格的過ぎるハードなものでした。

そんなことがきっかけで二人は度々会うようになり、二人の距離も近づいていきます。

そして直子の二十歳の誕生日に「僕」と直子は寝ます。

二人は恋人なのかもわからないままどこか哀しく愛を交わします。

それは恋の始まりと言うにはあまりに切なすぎる一夜でした。

その直後、直子は「僕」の前から姿を消し、「僕」は心にぽっかりと穴が開いた状態でいつも通りの生活を送ります。

ちょうどその頃、「僕」は同じ学部の緑という女性と出会います。

緑は直子とは異なり陽気で快活な女性でしたが、緑の存在は直子と会えない「僕」の心の穴を徐々に埋めていくのでした。

そして「僕」の元に直子から手紙が届きます。

直子は療養のため、京都の山奥の静かな療養所にいたのでした。

実は直子の心は「僕」の想像以上に傷ついていたのです。もう修復も難しいくらいに・・・。

この小説の読み方は色々あると思いますが、私はこの小説で生々しい性描写が多いのは著者がセックスを人間らしい、温かい営みとして積極的に肯定しているからなのだと思います。

『ねじまき鳥のクロニクル』でもセックスは人と人とのつながりを象徴するモチーフとして登場しています。

人間は何か大切なものを失っても生き続けるしかない。

心がどうしても前に進まない時、その時は痛みを胸に抱きつつも体の声に耳を澄ましてみるといい。

そしてもしそこに温かなぬくもりを求める気持ちが少しでも残っているのであれば、君はまだ生きていける。

この作品はそんなことを教えてくれているような気がします。

おすすめの本や本買取につてつづります。

私は本が好きです。

このブログではおすすめの本や、本買取の経験などを書いていこうと思っています。

本を存分に読んだら業者に売ってお金に換えれば部屋もすっきりするし、また新しい本を買う資金にもなります。

さてさて今日のおすすめの本は『トム・ジョウンズ』です。

この『トム・ジョウンズ』は全4冊、全18巻にわたる長編で、ある日オールワージ氏という裕福な名望家の邸宅の寝室で見つかった捨児トム・ジョウンズが、様々な紆余曲折を経て幸福をつかむまでのいきさつが、非常にユーモラス、かつドラマチックに展開されています。

最終的には、物語はまさに「醜いアヒルの子」的なハッピーエンドを迎えるわけですが、この作品の筋自体は、読者を楽しませることを目的とした、良くも悪くも「創作」の趣きが強い作品になっています。

個人的には、最初からトムが最終的に幸福を掴むであろうことが容易に予想されてしまったので、安心しつつも、どこか「読まされている」感を強く覚えました。

但し、物語中で作者によって明らかにされている、この物語の趣旨には大いに感銘を受けました。

その趣旨は、作者の言葉を借りるならば、あとがきでも引用されている、次の言葉から十二分に読み取れます。

「自分は絶対の善人だの絶対の悪人だのという、この世にありもしない怪物などは書かない。そういうものがご所望なら、そういう書物はこの世にいくらでもあるからそれをご覧になるが良い」

つまり、この著作の冒頭で、「人間性」を書くと宣言したフィールディングは、清濁あわせもつありのままの人間の姿を描くことを本書の究極的な目的としていたようです。

なるほど、この本の主人公は、率直で正義感に富み、美貌で勇敢という長所を持ちつつも、女にはだらしがなく、短気で暴力的という欠点をもあわせもっており、それまで主流であった理性に凝り固まった主人公達とは完全に趣きを異にします。

また高潔で温情に富むオールワージ氏も、その甥の狡猾な策略に意図も簡単にはまってしまいますし、ヒロイン役のソファイアも、「少しおでこが狭い」とか、あわてやすいといった人間臭い面を垣間見せてくれています。

但し、あとがきでも指摘されている通り、ブライフィル君や、ベラストン夫人が完全に近い悪人として描かれてしまっているなど、この人間のありのままを描写するという作者の意図がどこまで成功したかは議論の余地の残るところですが、本書におけるこの試みが、その後のリアリズム文学が誕生する、理論的な下地を築いたことは、まず間違いないと思います。